1.時代背景
私は1994年の12月に米国に赴任してから2010年の4月に米国の仕事を離れるまで15年の間米国のITビジネスに関わって来た。その間最初の
5年は大手IT企業NECの米国法人で、次の10年は自分の会社 (株)ケイアンドアイインターナショナルで仕事をしてきたが、その時代はIBMを中心とする
メインフレームが衰退し、サーバーやパソコンのオープンシステムがシステム構築の主流になった時代であった。そしてMicrosoft、HP、Sun、Apple、
CISCO、Oracle、Intel等の第一世代のベンチャー企業がその地位を確固たるものにしていた。次に1990年代にインターネットの技術が誕生し、
90年代半ば以降になると関連する多くの新しいベンチャー企業が誕生した。(メインフレームからオープンシステムへの変遷については
こちら を参照されたい)
5年のNEC米国法人では米国技術の日本導入やアライアンスの推進を、10年の自社ではNew Yorkにオフィスを構え(後半4年は東京オフィスを併設)、
バイリンガルエンジニアを採用して、米国ベンチャー企業の日本ビジネス開拓、ソフトウェアの開発請負、エンジニアの派遣、米国発ITレポートの発行.
日本企業へのコンサルテーション等を行ってきた。その間に多くのベンチャー企業と接する機会があったが、彼らとの交流を通して得られた経験をまとめて
みたい。また当時の仕事の内容に加えて、現在彼らの状態がどうなっているか改めて調べてみた。
多くのベンチャー企業はVC(venture capital)の資金で事業運営するが、VCの投資は、early stage (angels)、mid-stage、late-stageと段階的に行われ、
stage毎に専門とするVCが異なる。このようにVCの手厚い支援の仕組みがベンチャー企業のリスクをヘッジする重要な役割を果たしている。そしてベンチャー
企業の最後(exitプログラム)は上場するか、大手企業に買収されるかが彼らの目標となる。当社が手掛けたベンチャー企業の多くはVCとベンチャーの
ネットワークの中で紹介されたものである。
米国の大学では、No.1卒業生はベンチャーを作り、No.2、3はベンチャーのマネジメントで働くと言われている。そして多くの分野でリスクを恐れない彼らの
ベンチャースピリットによりイノベーションが支えられているが、そのような優秀な人達と仕事を通して熱い交流が出来たことは何にも増して貴重な経験
であった。
2.欧米ベンチャー企業との仕事
(1)Dodge Inc.(London郊外)
金融機関向けの会計用DWH(Data Warehouse。財務/管理会計のための長期にわたるデータ管理/分析)ソフトウェア会社
で米国やヨーロッパの大手金融機関に実績のあるベンチャーであった。NEC米国法人時代に私が最初に手掛けた案件であり、日本向けのみならず、住友銀行
(現三井住友)のニューヨーク支店で次期海外店システムの開発が検討されていたため日米にまたがり営業を行った。住友銀行では残念ながらOracleに
負けて導入には至らなかったが、日本では大和証券の担当営業が頑張ってくれて何とか導入された。この間、ロンドンには数回、加えてユーザ会が開催
されたスペインに出張する機会が与えられ、またニューヨークや東京への出張もあり、その機会を通して彼らとは随分と親しくなった。30~40代の
経営者の集まりで英国紳士的とは異なり、ヤンキータイプのザックバランな人達であった。同社はその後米国の中堅会計ソフトウェア会社に買収された。
(2)Marcam Solutions Inc.(Boston郊外)
米国の中堅ERP(Enterprise Resource Planning。販売/在庫/生産管理や会計の企業内情報管理)ソフトウェア会社でSAPやOracleの大手に対しテクノロジー
(オブジェクト指向)で対抗していた。当時すでにNECは国内のディストリビュータになっていたが、米国でNECのSI(System Integration)ビジネスを
立ち上げたいと言う目的で米国でのJV(Joint Venture)を設立した。このビジネスは日本の製造業担当事業部が5M$を投資して主管したもので、我々は
米国でサポートする立場で参加した。彼らとの交流はそれほど密なものではなかったが、その中でもEVPとは親しくなりそのコネで後述するCAMINUSの日本
向けビジネス開拓の仕事を獲得できた。同社は2004年にSSA Globalに買収された。
(3)Nexidia Inc.(Atlanta)
音声認識技術の会社であり、9.11テロ事件後2001年に発効した米国愛国者法(Patriot Act。2011年一部延長、2015年延長期限切れによる失効)に基づき
米国政府のセキュリティ開発予算が増強されたが、その恩恵を受け急成長していた企業で10カ国以上の言語の音声認識が電話傍受に適用された。当時は
この技術を民需(コンタクトセンター)に転用するため新しい開発を始めていた。自社になって最初に手掛けたベンチャーで幸いにもNECの交換機グループが
日本のディストリビュータになり、当社が周辺アプリケーションや日本語辞書の開発を担当させてもらった。しかし当時はクロスバー交換機が主流でNECは
世界でも有数の企業であったため、Nexidiaソフトは本来コンタクトセンター向けのソリューション(カスタマーのクレーム分析等)として利用されるもので
あったが、NECでは単純検索ツールとしてしか利用されなかった。この数年後にはクロスバー交換機(ハードスィッチ)はソフト交換技術(IP(Internet
Protocol)通信利用のサーバー)で置き換えられ、NECのビジネスも大幅に縮小したが、もしソリューションとして商品化されていればソフト交換ビジネスの
大きな付加価値になったものをと残念に思っている。彼らは地元アトランタの人たち(ジョージア工科大学出身者が設立)で垢ぬけてはいないが南部の素朴な
人柄の持ち主であり気楽に付き合ってくれた。何回か日本訪問があり、また当社のエンジニア2名が開発に参加し、大変密な交流をさせてもらった。同社は
現在はコンタクトセンター向けソリューションベンダーの大手に買収されている。
(4)iWay Software Inc.(New York)
異種システム間の結合アダプター(IBMやSAPとの接続)とそれらを統合管理するシステムインテグレーションのソリューションベンダーでありオーナー会社で、
当時すでにNew Yorkマンハッタンの真ん中にオフィスを構え、700人を超える中堅企業であった。開発部隊を含め全社員をマンハッタンの中で雇用する
のは相当利益が出ていないと困難で驚かされた(価格もかなり高価であったが)。日本のカスタマーは結合アダプターの完成品ではなく個別開発を好む傾向が
あり営業には苦労したが、それでもNECソフトに導入できた。当社のエンジニア1名を研修のため半年ほど受け入れてもらった。当社の窓口になったのは
ばりばりの東部エスタブリッシュメントのVPであったが、ハートのある人でもあった。現在でも会社名も製品名も同じまま健在である。
(5)CAMINUS Corporation(New York)
電力会社のトータルソリューションで、欧米では電力業界の自由化が進んでいて、発電会社、送電会社、販売会社が完全に独立運営されている。そして市場
が形成され、電力は発電会社と販売会社の間で市場取引され(大口顧客への直接販売もあるが)、取引された電力は送電会社の送電線を経由して数分単位に
行き先制御(パイプライン制御)されながら販売会社や顧客に送電される。CAMINUSは英国の市場システムの設計を担当した大手のベンダーで、NECがJVを作った
時の相手側のEVPだった人が社長になっていたためそのコネで日本向けビジネス開拓を担当した。当時日本でも電力自由化の機運が高まり、大阪瓦斯や
三菱商事(傘下に発電会社を持つ)が関心を持ってくれたが、その時には本格的な自由化(送電会社の分離独立)が見送られ、日本での導入には至らなかった。
現在はNASDAQに上場されている。
(6)Media Publisher Inc.(California Berkley)
マルチストリーミングやダウンロードの技術でビデオを配信する企業内映像情報システム(役員やスタッフから社員や外部へのビデオと付随資料による情報伝達
や教育、広報)を構築する。当社は日本語化を担当し、NECとSony、CTCにアプローチしたが、一般企業のビデオ配信による映像情報管理は日本では時期尚早と
いうことで導入には至らなかった(NECとSonyは放送のようなメディア業界でのビデオ配信は既に実用化していた)。CEOはUC(University of California)
バークレー出身の西部フロンティア精神に富んだ人で、日本に来てカスタマーを回ったり、ゴルフで有名なぺブルビーチで開かれたユーザ会にNEC金融システムの
幹部に出席してもらい、彼がディナータイムにピアノを演奏し当社の女性エンジニアが魅了されたり(彼は今NECの役員をしている)、北海道NECソフトの社長に
訪問してもらったり、印象に残ることが多かった。現在同社の名前は見当たらないが、当時から大手の買収話があり買収されたものと思われる。
(7)Time Cruiser Computing Corporation(New Jersey)
インターネットを利用して学校の管理(授業スケジュールの配布や宿題のやりとり、授業料支払、授業ビデオ配信、等)を行うeCampusソリューション。NECや
ベネッセに紹介したがやはり日本では時期尚早であった。現在はNew Jerseyの同じ町にCampus Cruiserという会社があり、もしかしたら後継かも知れない。
(8)Yellow Dragon Software Inc.(Canada Vancouver)
当時はeBusiness(B to B EC (electronic commerce)、インターネット上の企業間電子商取引)が大ブームで、XML(eXtensible Markup Language。HTMLと
同様にマーク付きの言語)ベースのeBusiness platformの開発が盛んであった。当社は最初はVancouverのあるベンチャーのソフトをかついだが、そこが上手く
行かなくなり、次に手掛けたのが同じVancouverのこの会社で国連(UN/CEFACT)でebXMLという業界標準仕様を開発していたチームが独立して立ち上げた会社
である。前述のiWay SoftwareがOEMでセールスしていた。最初のベンチャーも併せNECやNTTデータ、三菱電機に紹介したが、導入には至らなかった。
2003年にアドビシステムズに買収されている。
(9)eQuanxi Inc.(California Palo Alto)
やはりeBusiness platformベンダーで香港に開発拠点を持つearly stageのベンチャー企業。伊藤忠商事が関心を持ってくれてVC投資を含め検討してくれたが
締結には至らなかった。社長以下中心メンバーはアジア系で、香港にも行き開発部隊とも接し、何とか応援したかったが。現在同社の名前は見当たらない。
(10)Group Intelligence Inc.(New York)
Middlewareソフトで一度成功している(Sybaseに売却)人がB to B企業間情報交換サイトをビジネス化したいということでスタートアップの協力を依頼され、
日本のVC数社を紹介した。しかしこのステージの企業に投資するVCを見つけることは出来なかった。彼は子供のサッカーチームを熱心に応援するナイスガイ
であったが、仕事になると周りがへきえきするほどしつこく、なるほどベンチャーを立ち上げるにはそのくらい執着心(闘争心)を持たないとできないのかと
納得した。自己資金で開発していたが、現在同社の名前は見当たらない。
(11)日本人のベンチャー達
最後に米国で成功している日本人ベンチャーを紹介したい。カリフォルニア Palo Alto(スタンフォード大学がある)で日系企業を対象にコンサルテーションを
している会社。スタンフォード大学マスター出身でソフトウェア会社を立上げ、日本の証券会社のシステムを受託している会社。NEC米国法人で長年勤務した
人が独立し、DBトレースシステムを開発して大手DBベンダーに売却した会社。ニューヨークで日系企業相手にネットワークSIを行っている会社。彼らとは仕事
での交流は無く個人的な付き合いであったが、米国という厳しい環境でビジネスを成功させた人達である。
3.欧米ベンチャー企業に対する日米の評価の違い
以上のように当社はスタートアップ前から既に出来上がっている企業まで色々なステージのベンチャー企業に関わってきたが、その多くは米国では十分成功して
いる。しかし日本では残念ながら余り成功していないが、その原因を分析すると以下のことが言える。
(1)いくつかのビジネスは日本では時期尚早で機が熟していなかった。しかしこれは日本の規制緩和の遅れがイノベーションを阻害している面が大きい。
(2)日本の大企業はベンチャー企業に慎重でリスクを避ける傾向がある。しかしこのことは新しいテクノロジーやビジネスモデルに対する取り組みが遅れる
ことを意味し、日本のIT産業が国際競争力を失って行った遠因であるような気がする。
(3)日本の大企業は自社開発を好み、完成品(パッケージ)導入を嫌う傾向がある。この点で印象に残っているのは、前述した住友銀行(現三井住友)の
海外店システムで、フルバンキングシステムをベンダーの異なる数種類のパッケージ(預金/為替、融資、会計)をミドルウェアでつないで実現したことには
驚かされた。(日本のフルバンキングシステムは数百人から1,000人規模で自社開発(または複数金融機関による共同開発)されている。勿論規模
(顧客数や取引件数)は1桁から2桁違うので単純に比較はできないが。)
4.ビザについて
次にビザについて経験したことを説明したい。NEC米国法人ではLビザ(駐在員向け)、自社ではH1-Bビザ(専門技能職向け)を取得した。(他にEビザ
(貿易、投資)やFビザ(学生)がある)。H1-Bビザは1回目5年、延長は1回のみで5年(現在は共に3年、計6年に短縮されている)、毎年6万5千人が
上限である。私が取得した当時(2000年)は応募者はそんなに多くなく、2ヶ月程度の間に応募すれば取得できたが、年々厳しくなり、数年後には受付開始
から応募が殺到し、2日間で2~3倍の数になり、抽選になる。当社でも数名応募しても半分は落選し、やむなく東京オフィスを開設した。応募が多い理由は
米国外からが多数なためで、これを見ても海外の会社(特に中国とインドのIT企業)が米国に人を送り込み、米国の技術やノウハウを習得することに必死だ
ったことが分かる。
5.California vs New York
15年の米国との関わりの内、最初の4年はCaliforniaを、次の11年はNew Yorkを拠点にして仕事をしたが、最後に仕事を離れて米国での生活について
触れてみたい。
CaliforniaではオフィスはSan Jose(シリコンバレーの中心)、住まいはCupertino(Appleの本社がある)であった。オフィスはCISCOの隣で当時急成長して
いた同社のビル(2階建て)が毎年2~3個増えて行くのには驚かされた。住まいは、ロータリーに10数軒の家が立ち並び、1つの小さなコミュニティを
作っていて(米国では道路(avenueやstreet)沿いにアドレスが振られていてコミュニティになりやすい)、多人種の人が仲良く生活していた。移民も多く、
英語教育も充実している。公立の短大のコミュニティカレッジには高校卒業の資格があれば誰でも入学でき、好きな科目を選択できる。カレッジはESL
(English Secondary Langage, 英語を第二言語とする人たち)コースと一般コースに分かれ、ESLを卒業すれば何時でも一般コースに移れる。ちなみにうちの
奥さんはコミュニティカレッジに4年通ったが(内2年はESL)、カレッジでは地元の短大生が一緒でその中で日本のおばさん2人が先生の真前の席を占拠して
いたと笑っていた。このように開放的なところがCaliforniaの良さである。一方厳しさもあり、米国企業では成績の悪い下位10%の社員を毎年整理するところ
が多く、それがマネージャーの仕事であり彼らのプレッシャーになっている。(Intelに勤めるマネージャーの話)
次にNew Yorkに移ったが、オフィスはNEC時代(1年間)には今は無きWTCの40数階に、その後はエンパイヤステートビスの隣にあり、どちらも高層なため
煙草を吸うのも一々外に出て大変だったことを覚えている。家は最初の1年はマンハッタン、その後はNew Jerseyのアパート住まいでかつこの頃は日米半々の
生活であったため余り周りの人との交流は持てなかった。このためご近所付き合いは日本人同士になりがちでアメリカ人との交流は仕事中心にならざるを得な
かったが、仕事も皆が忙しく競争しているようで息が抜けなかった。しかしこれがNew Yorkの良さかも知れない。